神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

“ズベ公”になれなかった「スケバン刑事」

 前回「別冊映画秘宝 アイドル映画30年史」中の記事「少女アクションの狂乱時代」について言及したけれど、執筆した藤木TDC氏って、かの和製ヒロインアクションの名著「映画秘宝 COLLECTION アウトロー女優の挽歌 スケバン映画とその時代」の著者だった。そう思うと、なるほど東映“ズベ公”映画にも造詣が深い氏から見れば、昭和60年代のヒロインアクションが“ヌルい”と感じられてしまったのも頷ける。

 

 そんなことに気付いたからではないが(否、そのことに気付く前から書こうと思っていたのだが)、批判ばかりが目立つ上記の記事の中でも、実に興味深い事柄が記述されていたので、その点に注目しながら、同じ東映作品の70~80年代にかけての「スケバン」映画・ドラマの関連性について改めて言及したい。

 

 その注目すべき内容とは、同じ東映作品の「スケバン」モノでありながら、“ズベ公”から、「虫も殺さないような娘に無理矢理啖呵を切らせる」というアイドルとダークヒロインとのない交ぜという昭和60年代系ヒロインアクションの特徴へと移行する過程について、藤木氏が実に興味深い記述をしている点である。

 

 今まで当方のブログでは、その理由として麻宮サキ役が当初の宇沙美ゆかりから急遽斉藤由貴に変更になった、その偶然によるものと書いてきた。しかし藤木氏の記述によると、それは、本シリーズのプロデューサー・中曽根千治氏と企画の岡正氏との思惑の相違が互いにぶつかり合って偶発的に具現化したものだとしている。それも、東映で『0課の女・赤い手錠』など東映”ズベ公”映画の現場を体験している中曽根氏の当時の作品に対するオマージュ・それに伴う方向性と、あくまで本作を健全な主人公の成長物語・愛の物語にしたいと考えた岡氏(というかフジテレビの意向)という、共に真逆のベクトルがお互いに“綱引き”でもするように作用した結果、このような、傍目から見ればいびつな構成のヒロインおよびドラマになった、っていう結論に至っている。だから、麻宮サキを演じる斉藤由貴には、”ズベ公”を思わせる極めて長いスカートが準備され、且つぶっきらぼうでけんか腰のセリフ回しが用意されながら、演じ手本人は決してダークに演出されない、汚れない、というスタンスを保つという、清濁相まみれたいようなドラマが誕生したというのが実情らしい。

 

 

 それは、結果的に氏の言う「少女アクションを求める男のゆがんだ性欲と、芸能界におけるアイドル保守化の潮流がねじくれあって出現した異形の産物」として大いに共感を受けることになった。そうなると「柳の下の泥鰌」を求めるのは業界の世の常、従って、前作の人気を受けて制作された『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』でも、斉藤由貴と同様に二つのベクトルを具現化するために、およそアクションヒロイン・スケバン役には不釣り合いなアイドル、南野陽子が抜擢されたというのも自明の理だろう。そうなると、その路線を継承するためには、『少女忍法帖伝奇』の三代目麻宮サキ役の浅香唯は確かに幼すぎたかもしれない。彼女では過去の2作品の麻宮サキのような“ズベ公”の内包は難しかったかもしれないし、当然「男のゆがんだ性欲」を受け止めるには余りにもボーイッシュすぎたかもしれない。理想は明らかに美しい女性の容姿・肢体を誇示しながら、「女は捨てた」と男のように気丈に振舞い時として大仰な啖呵も切るお竜姐さん(藤純子)だろうから……その点、いきなり『少女コマンドー』の五十嵐いづみを先に三代目麻宮サキとして、それに似合った『スケバン刑事』のストーリーをこしらえたら、もしかしたら新たな展開があったかもしれない、なんて思ってしまったね(;^_^A

 

 

 そう考えると、変身時に“ズベ公”の香りを感じさせる『セーラー服反逆同盟』の方が、『スケバン刑事』ⅠⅡの正当な後継者だったのかもしれないな(;^_^A